自分を幸せにするために

主に舞台などの感想を投げようかと思ってます

メールを採用されたいがためにちょっと嘘つきました(懺悔)

こんばんは!とりあえず三日坊主にならないように心がけつつの二日目です。

 

元々「Wake Up, Girls!青葉の軌跡」関係の記事を書くために開設したブログなので、ブログタイトルにもそれが反映されているというか、まんまそれなんですけど、今でもSNSにリンク貼るときちょっと恥ずかしいなと思ってます。

で、今日はなぜこんな前置きをしたかと言うと、このブログにあげるならWUGとかメンバーに関する話がやっぱりいいかなあと。まあほとんど関係ない話をした記事もあるので、100%とそうしようと決めている訳でもないんですけど。

 

ということで、力尽きたらメモと称したブログでわぐちゃんに関係ない話をする予定なんですけど、とりあえず一週間くらいはこのブログで頑張っていこうと思います!(改めて決意表明)

 

とりあえず昨日はこれを書きました。

 

cocoa-kasiwane.hatenablog.com

 

さて本題です。

タイトルにも書きましたが、先日、実はちょっとした嘘をついてしまいました。

わぐちゃんたちの定期的なお仕事として、ニコ生やラジオが一つ挙げられるかなと思うですけど、昨日もそんな番組の一つ「My Closet」がありました。

 

ch.nicovideo.jp

私はいわゆるメール職人という部類には入らないし、メール投稿を日課にもしてないんですけど、私の中でまゆくろの、特にテーマメールは比較的採用率がいいので久しぶりに頑張っちゃおっかな~~みたいな気持ちでテーマをチェックしました。

 

今回のメールテーマは『新しい私、発見!』 いろんなきっかけで自分の意外な一面を見つけた時のエピソードを送ってください。

 

えっ??難しくない??もう何なら見た瞬間にツイートした。難しい!!!

 

ただ、まゆくろ以外の番組を含めても2月に採用されて以来、まあ投稿率も下がってたんですけど、採用されていなかったので意地になって、これはなんとしてもなんか送る!と思いました。ただまあ正直ネタがない。

 

そして苦肉の策で送った一通、面白さには欠けるもののメールを読む時間をたくさん取ってくれたので採用されました。ばんざい!

採用されたメールがこちら。

 

まゆしぃ、こんばんは!
大学では課題のために論文などを読むことがありますよね?
今までは小説ばかりを読んでいたけど、論文を読むのも楽しい!と思う自分が居ることが、大学生活をきっかけに出てきた意外な一面だったなあ、と。
 
春に大学を卒業しましたが、最近も「嵐が丘」に関する論文などを読んで、考察を深めたりするのが楽しいです!
 
他の回で採用されたメールでも、気持ち的にはそこまで実は割り切れてないというか綺麗に整ってないんだけどまあいいかな.....?と嘘とまではいかないものの建前が入っていることもあるんですけど、昨日のは完全にやりました。
 
懺悔します。
すみません、最後に付け加えた一文が嘘です。

 

大学が加入してるシステムで遊んでるときに、何故か嵐が丘に関する新聞記事を印刷していて、最近それを見つけて「あとで読も~~」って自室に放置したものと、ネットで見つけた【嵐が丘と翻案小説の比較】みたいなのも読みたいな~~って頭の中にあっただけでした。

ただ、採用されたさに負けてウソついたものの、本当に読まれてしまうとだいぶ申し訳ない気持ちが頭をもたげてきたので、今日時点では嘘にならないよう、きちんと読みました!

 

と、報告するだけならアホでもできるので、お粗末ですけど、読んだ論文と実際に見た朗読劇「嵐が丘」を考察して(できるのか?)レポート風にまとめたいと思います。

でも正直いちばん申し訳なく思ってることは、ごめんなさい、私が見た「嵐が丘」はこの回です。

 

 

予算の関係でまゆしぃが出演する公演は、今のところ現代劇しか見られてないです。

今の状況がなんとかなった暁には古典の朗読にも伺いたいと思っています。

 

音楽朗読劇『嵐が丘』と『"文学少女"と飢え渇く幽霊』

 のっけからあまりレポートっぽくないですが、ブログなので文体は崩して書いていこうと思います。さっきまでの決意はどうした。

 『嵐が丘』の公演決定が発表されたとき、真っ先に思い浮かんだのが『文学少女』でした。読んだのは中学生の頃で記憶はだいぶ薄れていたものの、題材として用いられていたことだけは明確に覚えていました。けれど、母が所有していて私の元に引き継がれた少年少女のための文学全集(名称は雰囲気です)に『嵐が丘』がなかったため、原作の知識は全くありませんでした。もしかしたら出版自体はされていたのか、物語の内容が児童向けにはならないと踏んで出版されなかったのか。とは言え『椿姫』は手元にあったので、やっぱり『嵐が丘』もあったのかもしれません。

 さて、以前観劇した『グレート・ギャッビー』や『レ・ミゼラブル』は映画の印象があったため、日本でも有名であろうことは想像にかたくありませんでしたが、『嵐が丘』もそうなのか?という疑問が頭をもたげてきます。教養のある人なら当然のように知っている本なのかもしれませんが、自分には教養が全くといっていいほどないため、一般の人もそれなりに知っているものなのか、そこが気になりました。

 2018年の朝日新聞の記事によれば、『嵐が丘』は日本で人気の英文学の一つであるそうです。それは、戦後に日本中を講演して回っていた英国人の批評家エドマンド・ブランデンが「英文学の三大悲劇は『リア王』と『白鯨』と『嵐が丘』である」と言ったから。とは言うものの、私は『白鯨』を聞いたことがあるような...?ないような...?という気持ちになったので、やっぱり教養のある人は知っている、というくらいなのかしら、とあたりをつけました。

 しかしこの記事の続きを読むと、どうやら既に20回以上日本語に翻訳され、宝塚でも公演が行われ、漫画やドラマや映画にもなっているんだそう。そうなの?とWikipediaに確認したところ昼ドラですが二度、ドラマ化され、映画は鎌倉時代に設定を移して撮られているみたいです。『嵐が丘』に基づいて書かれた、水村美苗著の『本格小説』が出版されています。

 さて、見出しにも記した『文学少女』の話に移りたいと思います。《飢え渇く幽霊》(幽霊にはゴーストのルビがふられています) は物語がほぼ終わりに達している段階から始まるため、形式としては推理小説のwhodunitに当たるそうです。whodunitはフーダニットと読み(当然のように読めていたらすみません)、「誰がやったか」が謎の焦点になります。(フーダニットが何かは正直調べた) 

 と思ったんですけど、個人的に文学少女シリーズはとても気に入っているのでネタバレしてもつまらんな、そもそも朗読の話はいつ始まる?って感じなのでやっぱり基本は割愛しようと思います。

 いい加減朗読の話に行けよ、という感じですが、論文に書かれていた嵐が丘の解釈というか内容について下記に引用したいと思います。朗読劇を見ていた時はこのあたりのことが分かってなかったな、ということがこの記述で分かったので。

  • 文化的な生活を送るエドガーに魅了されて結婚したキャサリン(キャシー)は、この生活に適応するために淑女に変身しなければならなかった。これは、彼女の内にある野生的な分身・ヒースクリフを抹殺することであった。
  • さらに妊娠が野生児キャサリンにとっては抑圧となり、三日間の拒食の後、精神錯乱を起こしたキャサリンは窓を開け放って、野生の風を呼び込むことで野生児としての自我を開放する。
  • キャサリンの精神は「子供」と「大人」に分裂してしまい、「大人」としての出産に耐え切れず、そして亡くなる。
  • キャサリンの拒食は野生児キャサリンが女性としての成熟を拒否したことを示しており、ロックウッドが見る幽霊が子供であるのはそのため。

  朗読劇では鬼気迫る笹翼くんのお芝居と、可憐というよりはやや気が強く、最終的には弱って息絶える田中美海さんのお芝居があまりにもハマっていて、ここ一番の作品に仕上がっていました。音源とかでもいいから残らないもんかな.....

 ヒースクリフはキャシーがエドガーのところへ出かけて行った日に×を、自分と一緒に過ごした日に〇をつけてるんだ、というセリフが忘れられません。そんな下らないことをしてるの?と蔑んだ顔をしたキャシーも忘れられない。けれど、結局キャサリンエドガーとの結婚を選択してもなお、ひたすらにヒースクリフを求め続け、「私の半身」という呪いを残して去っていくのがあまりにも良すぎた。(もう完全に語彙力が失われているし、薄々気が付いていたけどレポートとは、である)

 あまりにも良すぎたというのはやっぱり田中美海さんがキャサリンにぴったりすぎた、という話になるんですけど。

 どうして出産してすぐに亡くなったのか、そのあたりがよく分かっていなかった(もしくは忘れていた)んですが、三日間も食事を取らずに子供を出産しようとしたらそれはきっと現実的にも厳しいんだろうな、という気持ちが起こる反面、じゃあキャサリンヒースクリフを選んでいれば死ななかったのか、ということについては議論の余地があると思います。

 キャサリンエドガーと暮らすために自分の半身であるヒースクリフを切り捨てた訳ですが、そうは言っても朗読劇で見たキャサリンは完全に切り捨てることはできていないどころか、淑女らしく振る舞っているかという点においてもやや疑問が残ります。加えて、成熟すること、大人になることを拒否したのだとしたら、それは相手がヒースクリフであっても果たして無事に済んだのか?と思ってしまいます。ただ、隣にヒースクリフが居るのであれば、自身の中のヒースクリフを切り捨てる必要もなくなり、精神の分裂が仮に起きたとしても、それを乗り越えられたのかな、という気もします。なぜ乗り越えられると思ったのかを、もう少し詳しく言語化したかったけど上手く出来なかった。

 なんだかどんな風に締めたらいいものやら分からなくなってきたので、とりあえずレポート風に書くのは失敗という結果を受け止めつつ、自宅に『嵐が丘』の原作があるので読破後に改めて検討することにします。

 

<参考文献>

朝日新聞 2018.6.22 夕刊 p.3 ダミアン・フラナガン嵐が丘」日本で人気の理由

渡辺美樹嵐が丘』の一翻案 ―『”文学少女”と飢え渇く幽霊』について―

https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/0-kyouiku/seminar/2008sympo/07.pdf

 

マジでもう引用文献?参考文献?の記述の仕方忘れてるとは思わなかった。

 

“文学少女”と飢え渇く幽霊【ゴースト】 (ファミ通文庫)

ちなみに本文中?で割愛したけど論文を読んで気になった『文学少女』に関する記述を下記にピックアップします。完全にネタバレです。

  • 恋愛をテーマにするという点では、その源流を明治期の少女小説に遡ることのできるライト・ノヴェルのお馴染の範疇に属しているともいえる
  • 嵐が丘』では二重分裂の感覚を味わうのはキャサリンであった。蛍がキャサリンと同様に死んでいったのは、まさにこのためではないかと考えられる。
  • 恋人への復讐の手段として、生き写しの娘をその母親の形代とする経緯には『源氏物語』の紫の上や浮舟に通じるものがある。
  • 文学少女』はキャサリン二世を重視した点に特徴がある。
  • 原作の『嵐が丘』でキャサリンが妊娠するのが出奔したヒースクリフ嵐が丘に戻ってきてからであることを考えると、キャサリン二世の父親がヒースクリフであっても良かったというメッセージであるのかもしれない。逆を言えば、原作ではキャサリン二世の父親がエドガーであることに疑いをもたれないようにするために、彼女は性格がエドガーに似て穏やかであるとネリーによって語られたのであろう。

 

今度こそ本当におわり!